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伝説のきっかけとなったスカイラインを展示

スカイライン2000GT 赤バッジ

日産グローバル本社ギャラリーでは、2013年11月12日から11月17日まで日産自動車の創立80周年を記念した特別展示イベントのパート3が開催され、スカイライン伝説のきっかけとなったクルマ、プリンス スカイライン2000GTが展示された。

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伝説の始まり

1963年(昭和38年)11月に発売された2代目スカイラインは、直列4気筒1500㏄エンジンを搭載したファミリーセダンとして登場した。

4万キロオーバーホール不要の「封印エンジン」や、当時頻繁に必要とされていたシャシーへのグリスアップを不要とした「1年間3万km無給油シャシー」を採用し、メンテナンスフリー化が図られていた。

1964年(昭和39年)、第2回日本グランプリ参戦のため、急遽作られたのがスカイライン2000GT(S54A-1型)。
高出力のエンジンが必要なことから、スカイライン1500のボディをエンジンルーム部分で20センチ延長してグロリア用の直列6気筒2000ccエンジンを搭載した車両を制作し、レース出場のホモロゲーション(認証)を得るために100台を販売。

第2回日本グランプリでは、トップを走るポルシェ904が周回遅れのマシンに進路を塞がれた際にスカイラインがポルシェを抜き、1周だけトップを走行したという有名なエピソードがあるが、この出来事は戦後復興から高度経済成長を成し遂げた当時の日本人にとって誇らしい出来事であり、これがスカイライン伝説の始まりとなった。
そしてその後のスカイラインGT-R伝説へとつながっていくのである。

1965年(昭和40年)2月、第2回日本グランプリでの活躍がきっかけとなってスカイライン2000GT(S54B-2型)が正式なカタログモデルとして発売される。

エンジンの燃料供給にはレース仕様車同様に仏・ウェーバー社製キャブレターを3基搭載し、最高出力125psを発生した。
エンジン1基に対してウェーバー社製キャブレターが3基必要なことからキャブレターの供給問題が発生したため、同年9月にはキャブレターを1基に減らして最高出力を105psとした2000GT-Aを追加。
この時2000GTは2000GT-Bへと名称変更が行われた。

プリンス スカイラインは1966年(昭和41年)8月にプリンス自動車が日産自動車と合併した際、車名がニッサン プリンス スカイラインとなった。

長野から来たスカイライン

展示車は1965年(昭和40年)式2000GT。
GT-Bに名称変更される前なので、1965年(昭和40年)2月から9月の間に生産された車両となる。

リアウインドウには日産プリンス長野のステッカーが貼られていた。
展示車はプリンス自動車が日産自動車と合併する前の年式なので、後から貼られたようだ。

スピードメーターは200km/hまで表示、オドメーターは83,091㎞だった。

丸型テールランプは2代目で初採用され、3代目で一旦途絶えるが4代目で復活し、その後長きに渡りスカイラインのアイデンティティの1つとなる。

プリンス スカイライン2000GT(1965年 S54B-2型)主要諸元

全長:4,255㎜
全幅:1,495㎜
全高:1,410㎜
ホイールベース:2,590㎜
トレッド(前/後):1,265/1,255㎜
車両重量:1,070㎏
サスペンション(前/後):ダブルウィッシュボーン/リジッドアクスル
ブレーキ(前/後):ディスク/ドラム
タイア(前/後):165/80R13 / 165/80R13

エンジン主要諸元

エンジン型式:G7(直列6気筒SOHC)
総排気量:1,988㏄
最高出力:93.2kW(125ps)/5,600rpm
最大トルク:166.7N・m(17.0kgf-m)/4,400rpm

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