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日産 MID4 Ⅱ型が市販を断念した理由

日産が1980年代に開発したミッドシップスポーツカー「MID4 Ⅱ型」が、日産グローバル本社ギャラリーで2018年1月10日から2月11日まで展示された。

MID4 Ⅱ型は市販を前提に開発されたものの、発売されることはなかった。
その理由とは…
(この記事は普段より長いので、時間のある時にお読みください。)

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MID4はミッドシップのパイクカー・プロジェクトだった

日産 MID4(1985年)

モータースポーツジャパン2015 mid4

日産の国内シェアがトヨタに追いついたのは1970年代半ばだった。
初代フェアレディZや4代目スカイライン(ケンメリ)、サニー(B210型)といった人気車種によって1976年(昭和51年)の国内シェアは31.0%となり、37.7%のトヨタからの首位奪還も夢ではないというところまで来ていた。

しかし、日産は国内販売戦略の失敗でシェアを失い、1980年代に入ると再びトヨタと差が開いてしまう。
この状況を打開すべく、日産はミッドシップスポーツカーの開発をスタート。
当時の専務取締役であった園田善三氏の案で3リッタークラスの高性能スポーツカーと1.8リッタークラスの小型スポーツカーの2種類を計画し、パイクカー・プロジェクトの一環として開発を始めた。

1.8リッタークラスはマツダ「サバンナRX-7(初代)」を競合車として開発を進め、モックアップが完成した段階で役員会に提出したところ、一部の役員から「ゴルフバッグが積めない」と苦情が出たため、開発中止となった。
一方、3リッタークラスはスカイラインの開発者として知られる桜井眞一郎氏によって開発が進められ、MID4(ミッドフォー)となった。

MID4はV型6気筒のVG30E型をDOHC化した、最高出力230馬力のVG30DE型エンジンを横置きに搭載。
4輪駆動システムはオーストリアのシュタイア・プフ社に開発を委託した、プラネタリーギヤのセンターデフとビスカスカップリングを組み合わせた方式となっていた。
コーナリング性能の高いミッドシップ方式にトラクションに優れた4輪駆動を組み合わせることで高い運動性能を得るという考え方だった。
MID4は1985年(昭和60年)9月のフランクフルトモーターショーでデビューし、その後同年の第26回東京モーターショーにも出品された。

市販を前提としたMID4 Ⅱ型へ

日産 MID4 Ⅱ型(1987年)

MID4がフランクフルトモーターショーで発表されたのと同時期に、MID4 Ⅱ型の開発はスタートした。
MID4に対するモーターショーでの反応が上々だったことから、MID4 Ⅱ型は市販化前提で開発が始められた。

MID4 Ⅱ型の開発は桜井氏から指名を受けた中安三貴(なかやす・みき)氏が担当。
MID4 Ⅱ型はミッドシップ+4輪駆動のレイアウトを踏襲し、さらなる高性能化のために最高出力300馬力のエンジンを搭載することとなったが、当時の日産には300馬力を出せるエンジンがなかったため、中央研究所がVG30DE型をツインターボ化した330馬力のVG30DETT型エンジンを開発した。

MID4とMID4 Ⅱ型の最大の違いはエンジンの搭載方法で、MID4が横置きだったのに対し、MID4 Ⅱ型は縦置きとなった。
トランスミッションの設計をフェアレディZ(Z31型)用をベースとする都合上、横置きが成立しなかったからだ。
また、縦置きの方がツインターボやインタークーラーの配置がしやすいというメリットもあった。

MID4 Ⅱ型のデザインは前澤義雄氏が担当。
ミッドシップを強調するのを避け、ルーフからリヤフェンダーをなだらかにつなげた造形としている。
ボディパネルにはスチール・アルミ・CFRP・FRPの4種類の素材が使い分けられている。

後方視界を確保するためにエンジンルームの全高が抑えられたため、出っ張ったエンジン上部を覆うカバーが付けられた。
エンジン搭載位置も後方視界の都合上、可能な限り下げられたため最低地上高は100㎜しかない。
そのためにインタークーラーを冷却効果の高いエンジン上部に配置することができなくなり、仕方なくエンジン後部にインタークーラーを配置したが、エンジンルームの熱が思うように逃げなかったという。

サスペンションはフロントがツインダンパー式のダブルウィッシュボーンで、リヤはマルチリンクに最大変位角2度の4輪操舵システム「HICAS(ハイキャス)」を装備。

MID4 Ⅱ型は1985年9月のMID4デビュー直後に開発を開始し、1987年の第27回東京モーターショーに展示していることから、わずか2年で開発されたということがわかる。

市販化への壁

MID4 Ⅱ型は1987年(昭和62年)第27回東京モーターショーに出品された。
MID4よりも完成度が高かったため、いつ、いくらで発売されるのかと話題になった。
しかし、市販化には技術的にも、日産社内のコンセンサスの面でも課題があった。

技術的な面では、東京モーターショーの展示車は走行可能な状態ではあったが、市販するためには前述したエンジンルームの熱対策やハンドリングなどの改良が必要で、最低でも1年以上の開発期間が必要な状態であった。

社内のコンセンサスの面では、当時日産の車両実験部員だった武井道男氏が専務取締役であった園田善三氏の指示でポルシェを訪問し、ポルシェ959を開発したヘルムート・ボット教授にMID4 Ⅱ型の市販化についてアドバイスを求めたところ、
「959は予算や時間の制約なしに、ポルシェの最高の技術を結集したもの。日産がMID4 Ⅱ型を市販するためには、開発者の考えに誰もが協力する体制、全社的なサポート体制が必須条件。」と言われたそうだ。
量産メーカーである日産が、スポーツカー専門メーカーのポルシェと同じ開発体制を取れないことはいうまでもない。

また、MID4 Ⅱ型の市販にあたっては、1台2,000万円で販売しないと採算が合わないという話もあったという。
ポルシェやフェラーリのような高級ブランドならともかく、量産メーカーの日産が2,000万円の車を発売したところでどれだけ売れるのかという点も課題となった。
現在では日産GT-R NISMO(1,870万円)やホンダNSX(2,370万円)といった高価格の日本車が発売されているが、1980年代当時の日本の自動車メーカーにとって、2,000万円の市販車は未知の世界だったのだ。

こうして、市販化を前提に開発が進められたMID4 Ⅱ型は、市販されることなく消え去っていった。
だが、MID4 Ⅱ型で開発されたツインターボエンジンやマルチリンクサスペンションの技術はその後発売された日産車に生かされることとなった。
参考文献:モーターファンイラストレーテッド

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